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苦手な先生と苦手な授業
小学校高学年にもなると 人間関係も少し変わってきて、友達も 少し増えた。
でも 担任の先生が 結構厳しくて 苦手でしたね
熱血 という訳ではなかった気がするけど、私が苦手な事や周りより劣っていることばかりを見て、不器用な体の動きを皆の前で させられたり
(鉄棒や跳び箱、マット運動等) 算数は苦手なのを担任なら知っていたと思うけれど、わざわざ発表させて 間違った回答をすると 「はい残念 ❌ですね」 と言ってみたり… 今の時代に こんな先生いたら、多分 訴える人は訴えるでしょうね…
でも あの頃は 出来て当たり前、出来ないのは 努力が足りないからだと言われる時代だったし、先生の言うことは、絶対 だったから 我慢するしかなかったですね…
頭の中で嵐?
そんな小学校高学年 時代を送っていた私ですが、ある授業で 動くおもちゃみたいなのを作っていたときの事でした。
手先も不器用だったので、電気の伝わり方だの配線だの考えながら イメージを形にするなんてとてつもなく その頃の私には難しい課題で、考えて考えて ごちゃごちゃやっているうちに
急に 意識が遠くなって 頭の中で嵐が起きているようなー そして倒れてしまったようです。
てんかん発作
☝️の出来事があり、私は 病院へ行き、検査をした結果 てんかんということが解った。
そんなに珍しい病気でもないらしいのだけれど
てんかんにも種類が色々あって 治りやすいものから治りにくいものまであるそうです。
母は ショックこそ受けてはいたものの、私の様々な苦手なことがあるのは 脳のどこかに何らかの原因があっての事だったのかもしれないということが解って、少しホッとした所もあったよと聞いたこともある。 人間 何事も原因が解ると そこへの向き合い方を考えていけるから 何をしても上手くいかない 何でなんだろうっていうモヤモヤが少しなくなりますよね。
母との病院通い
それから 検査や、治療のために、月に数回 大きな 病院へ通うこととなり、その日は学校を休んだ。 母は 周囲に私の病気の事を話した結果、祖母には 散々なことを言われ、育児には ほぼ参加しない父とも別れ話にまで発展したりと 大変だったようでした。また、学校の方へも 授業の取り組み方や発作の起きやすい状況等を話してくれたようでした。
当時は 医療手当て等の国からの支援もない中 母は自分も働かなくてはと思い立ち、車の免許を取って 配達の仕事を始めました。
私はと言えば その頃はお気楽なもので、検査の為に学校を休めるのはラッキーだと思っていたし、母の気持ちが 自分の方に向いてくれたということが嬉しかったのかなと思います。
特に 脳波検査のあとは 頭にクリームがついているので、それを 母がシャンプーしてくれたり、病院の中にある食堂でホットケーキを食べたりする時間が 幸せだったのを今でも覚えています。
薬の効能
幸い 私のてんかんは治りやすい方のもので、薬で様子を見ることになり、検査は続けながら過ごすこととなりました。
薬が聞いたことと、母が自分と向き合ってくれたという精神的な安心 安全が 効いたのか まず
性格が 明るくなりました。
苦手なことが 突然出来るようになるということはありませんでしたが、母が 『苦手な事は無理しなくてもいい。好きなこと出来ることを一生懸命頑張りなさい。 授業中 分からない質問をされたら ハッキリと「分かりません」と言っていい。
体育も出来ないことは出来ないと言ってもいい
ただ 出来ないから やらないのではなくて、出来なくても失敗しても 挫けずに参加しなさい』
と教えられたことが、今の自分にも自分の子育てにも繋がっているなと感じています
自立より自律
発達支援の仕事をしていると 自分の幼い頃と重ねて 愛しくもあり 共感する場面も沢山あります。 支援者として 伝えていきたいことは、
自分の得意なことと苦手な事を知って 得意なことはどんどん突き詰めて 苦手な事は ちょっとずつ頑張りながら 周りを頼っていけるスキルを身に付けていってもらえたらなと思っています。
支援する側も 苦手なことを無理に克服させようとしたり、普通に近づけようとするのではなく
その子がありのままで どうしたら社会生活が送りやすいか 試行錯誤しながら工夫出来る人で 自分もいたいと思うし 保護者や発達支援者にもそうであってほしいなと思います。